木曜日の17時40分。名古屋にある中堅商社の営業アシスタントのもとに、海外の取引先からクレームのメールが届いています。英文の返信をいつも確認してくれる上司は、もう退社しました。そこで、そのメールを無料のチャットボットに貼り付けます。取引先の名前と注文番号、そして短い指示を添えて。「丁寧に。謝罪はするが、非は認めないこと」。
返ってきた文面は、よくできています。本人が一人で書くよりも上手なくらいです。メールは17時52分に送信されました。
使っていいと言われたわけではありません。使うなと言われたわけでもありません。2019年に作られた「外部クラウドサービスの利用」に関する社内規程が、チャットボットに当てはまるのかどうか。誰にも分かりません。
こうした場面は、もう珍しくありません。総務省によると、日本で生成AIを個人的に利用したことのある人の割合は、わずか1年で2倍以上に増え、6割近くに達しました。ほとんどの企業が、どこかの業務でAIを使っていると答えています。一方で、社員が実際に何を入力しているかを把握している企業は、ずっと少ないのが実情です。
このギャップの行き先は人事です。ITはサイトをブロックでき、法務はルールを作れます。けれど、誰が何を使うのか、それが評価にプラスなのかマイナスなのかは、人の問題です。
守られていないルール

日本の会社員を対象にした最近の調査では、仕事でAIを使っている人のおよそ5人に1人が、会社の承認していないツールを使っていました。入力されていたものとして多かったのは、業務メールと社内資料です。
より示唆的なのは、次の結果です。回答者の多くは、機密情報をAIに入力することに抵抗を感じていました。そして、抵抗を感じていた人の多くが、それでも入力していたのです。
つまり、問題は意識の低さではありません。締め切りは目の前にあり、リスクは抽象的で、同じ結果を安全に得る手段が他にない。承認された代わりの手段がないまま「使うな」と言うルールは、多くの場合、「言わなくなる」ことを教えるだけです。
社員が黙っている理由は、もう一つあります。2時間かかっていた作業が20分で終わるようになったと明かしても、本人にとって良いことはほとんど起きません。仕事が増えるか、評価が下がるか、誰も説明しなかったルールについて注意されるか。しかも日本の評価制度の多くは、建前はともかく、実際には目に見える努力を評価する傾向が残っています。チャットボットの力を借りて昼までに提案書を仕上げた人は、遅くまで残って仕上げた人よりも、説明に苦労することになります。
会社にとってこの沈黙は、有益な発見が一部の人のブラウザの中にとどまり、危うい使い方が見えないままになることを意味します。シャドーAIは、突き詰めれば「申告されない」という問題です。そして申告するかどうかを左右するのは、ITによる管理よりも人事の制度のほうです。
ライセンスを配るだけでは方針にならない
逆の失敗も、同じくらいよくあります。法人向けのAIパッケージを導入し、全員にログインIDと30分の動画を配って、それで導入完了とするパターンです。
国内の調査を見ると、導入済みの職場でも、ほぼ毎日AIを業務に使っている人は10人に1人程度にとどまります。社員の使い方を厳しく管理しても、得られるものはわずかです。
成果を上げている企業は、社員に試させ、うまくいったやり方を共有できる場を用意しています。いちばん恩恵を受けているのは、技術に詳しい人ではありません。好奇心の強い人です。
パナソニック コネクトは、それを大規模に実践している例です。同社の社内AIアシスタントは、昨年度、80万時間近い労働時間を削減しました。全社の総労働時間の3%強にあたります。削減の中身は、議事録、コード、提案書の下書きといった日常業務でした。未来的な話ではありません。
法律が求めていること、求めていないこと
日本には、企業にAI方針の策定を義務づける法律はありません。2025年のAI推進法はAIの活用を促すもので、企業への罰則はなく、政府のAI事業者ガイドラインも任意です。

実際のリスクは個人情報にあります。個人情報保護委員会は、入力内容を学習に使うAIツールに個人データを入力すると、個人情報保護法に違反するおそれがあると注意を呼びかけています。無料の個人向けサービスは、入力内容を学習に使うことが少なくありません。法人向けのサービスは、通常は使いません。この一点の違いが、方針の大部分を左右します。
人事が決めるべき5つのこと
承認ツール。
制限をかける前に、まず承認された選択肢を用意します。海外の調査では、会社が提供しなくてもAIツールを使うと答えた人が半数を超えています。代わりの手段がない禁止は、利用を個人のスマートフォンに移すだけです。
何を入力してよいか。
最も重要なルールです。覚えやすい段階に分けておきます。
- 公開情報:承認ツールならどれでも可
- 社内情報(下書き、個人名のない議事録など):承認ツールのみ
- 機密情報(顧客との契約書など):承認された法人向けツールで、定められた用途に限る
- 社員・顧客・応募者の個人データ:個別に承認された場合を除き、入力不可
そのうえで、実例を示します。判断に迷うものも含めて。顧客のメールを翻訳するのは無害に思えますが、そこには顧客の名前とクレームの内容が含まれています。
アウトプットの責任。
責任を負うのは、使った本人です。これは明文化しておきます。取引先の前で何か問題が起きたとき、ツールのせいにしたくなるのが人情だからです。
人事自身の判断とAI。
履歴書や評価コメントの下書き、整理、要約にはAIを使えます。ただし、人の雇用に関わる判断を下し、その責任を負うのは人です。
浮いた時間をどう扱うか。
これに触れている方針はほとんどありませんが、社員がいちばん気にしているのはここです。AIで仕事が速くなったら、目標は上がるのか。推奨は、少なくとも当面は上げないこと。そして、それをはっきり伝えることです。速いやり方を見つけた結果が仕事の増加だけなら、社員はまたAIを使っていることを隠すようになります。
| 方針の条文例 あくまで出発点です。自社のコンプライアンス方針に合わせて調整してください。 1. 会社の情報を扱う業務では、承認リストにあるAIツールのみを使用する。 2. 社員・顧客・応募者の個人データは、書面で承認された用途を除き、いかなるAIツールにも入力しない。 3. AIを使って作成したものの責任は、作成者本人にある。送信前に、事実、数字、名前、トーンを確認する。 4. 採用、評価、給与、懲戒に関する判断を、AIのみに基づいて行ってはならない。 5. 誤って情報をツールに入力した場合は、当日中に[連絡先]へ報告する。早めの報告は正しい行動であり、会社もそのように扱う。 5つ目の条文は、見た目以上に重要です。ミスの報告が危険に感じられる職場では、ミスは報告されなくなります。 |
機能紹介で終わらないAI研修

これまでのAI研修の多くは、機能の紹介でした。役に立つのは1週間ほどです。本当に難しいのは、判断力のほうです。
よく知られたある実験では、AIを与えられたコンサルタントは、AIに向いたタスクでは速く、質の高い仕事をしました。ところが、AIがうまく扱えない領域から少しだけ外れたタスクでは、AIを使わなかった同僚よりも明らかに間違えやすくなりました。AIの答えが自信ありげだったので、そのまま受け入れてしまったのです。
研修で教えるべきは、そこです。自分の仕事の中で、AIがどこで間違えるのか。日本の職場なら、翻訳はリストの上位に入ります。AI翻訳は流暢なので誤りに気づきにくく、問題は意味のずれとして現れます。慎重な「検討します」が、英語では前向きな約束として伝わることがあります。丁寧な断りが、「たぶん大丈夫」と読まれることもあります。
管理職には、専用の研修が必要です。管理職の役割は、AIの利用を見える化すること。つまり、責めているように聞こえない形で「この仕事、どうやって進めたの?」と聞けることです。簡単な習慣として、チーム会議で全員に今週AIを使ったことを一つずつ共有してもらい、自分が最初に話す、というやり方があります。
30分の研修動画は要りません。意欲のある部署を一つ選び、その部署の実際の業務で試し、うまくいかない点を直してから、次の部署に広げます。しっかり研修を受けた20人のほうが、動画をクリックして終えた2,000人よりも、良いやり方を広めてくれます。
まず何から始めるか
一つだけやるなら、実態の把握です。どのツールを、何のために使い、どんな情報を入力したことがあるか。短い匿名アンケートで聞いてみてください。目的は現実的な方針を作ることで、誰かを責めることではないと、はっきり伝えたうえで。実態を知らずに書いた方針は、すでに広まっている使い方を禁止しがちです。それが、ルールを形だけのものにするいちばんの近道です。
名古屋の営業アシスタントは、悪いことをしたわけではありません。取引先も納得しました。問題は、会社がそれを知らないこと。どれくらいの頻度で起きているのかも分からず、うまくいったという事実から学ぶ手段もないことです。
良いAI方針とは、あの営業アシスタントが翌朝、上司に気軽に話せるような方針です。AIを使ったことが「告白」のように感じられるうちは、その方針はまだ機能していません。

