2013年、衣料品店で毛布を購入した客が、商品に小さな穴を見つけました。明らかな不良品であり、どの店でも交換に応じたはずです。しかしこの客は店員に土下座を強要し、その様子を撮影して、店名と店員の実名とともにSNSに投稿しました。東京地裁は罰金30万円を言い渡しています。その10年後には、2度続いた誤配送をきっかけに配送会社の責任者へ土下座を強要し、撮影までした男に、強要罪で執行猶予付きの懲役刑が下されました。
どちらの客も、申し出の出発点には正当な理由がありました。それでも刑事責任を問われています。この10月のカスハラ対策義務化を前に、人事担当者が本当に知りたいのはここではないでしょうか。要求の厳しいお客様とカスハラの境界線は、どこにあるのか。
2026年10月1日に何が変わるか
改正労働施策総合推進法により、2026年10月1日から、カスタマーハラスメント対策が全ての事業主の雇用管理上の義務になります。企業規模は問いません。従業員が1人でもいれば対象です。

今年2月に公表された厚生労働省の指針が求めるのは、事業主方針の明確化と周知、従業員が実際に使える相談窓口、発生時の対応手順、そして警察への通報やサービス提供の拒否を含む悪質事案への対応方針の整備です。
ここまでは文書の話です。難しいのは判断のほうで、判断は指針が代わりに書いてくれません。
境界線はどこに引かれるか
指針の枠組みは、突き詰めれば2つの問いです。
- 要求の内容は、実際に起きた問題に照らして妥当か。
- 内容が妥当だとしても、要求の手段・態様は社会通念上許容される範囲に収まっているか。
冒頭の毛布の事例が越えたのは、2つ目の線です。クレーム自体は正当でした。土下座の強要と晒し行為が犯罪だったのです。また、執拗さだけでも線を越えます。2019年には、契約への不満から8日間で400回以上、KDDIの窓口に電話をかけた男が逮捕されました。1本1本の電話は犯罪ではありません。回数が犯罪でした。

カスハラは小売や接客業だけの問題でもありません。長野地裁飯田支部の令和4年判決では、医療機器販売会社の営業担当者2名に脅迫や暴行を繰り返した病院の部長について、病院自体の使用者責任が認められました
被害者らが耐え続けたのは、病院が自社にとって最大の取引先だったからです。取引先との関係も義務の対象であり、裏を返せば、自社の社員が仕入先にどう接しているかも対象になります。
一方で、この法改正は正当なクレームを危険なものにはしません。実際に起きたサービスの不備を常識的な方法で指摘するお客様は、これまでどおり守られます。境界線を理解した従業員は、不満を持つお客様の全てを脅威として扱わずに済むようになります。
もう一つの境界線は、社内に引かれる
平成30年の甲府地裁判決を見てください。家庭訪問中に児童宅の犬に噛まれて負傷した小学校教諭が、その家庭のペット保険に言及したところ、家族が学校に抗議しました。校長は家族の側に立ち、教諭を一方的に叱責し、膝をついて謝罪することを強いました。快方に向かっていた教諭の抑うつ症状は悪化してうつ病に至り、裁判所は約270万円の損害賠償を命じています。
厳密に言えば、これはパワハラの判決です。訴えられたのは児童の家族ではありません。しかし、だからこそこの判例には目を通す価値があります。ハラスメントは学校の外から始まり、校長の対応によって学校の中で違法になりました。カスハラへの対応を誤れば、それはパワハラに転化し、責任を負うのは会社です。従業員を追い込んだのはお客様ではなく、上司の対応でした。
その裏返しが、令和4年の東京高裁判決です。カスハラ被害を受けたNHKサービスセンターの従業員が、安全配慮義務違反を理由に会社を訴えましたが、会社が既にカスハラ対策を講じ、実際に機能させていたことから、請求は棄却されました。

10月1日以降、従業員を犠牲にして苦情者をなだめる甲府型の対応は、従来のパワハラリスクに加えて、義務違反の証拠になります。NHK型の対応は、法的な安全地帯になります。同じ法律が、二つの方向に働くのです。
10月までに何をするか
UAゼンセンが2024年にサービス業の組合員約3万3千人を対象に行った調査では、カスハラを受けた際に最も多かった対応は「謝り続けた」で35.9%。「毅然と対応した」をわずかに上回りました。この数字は、方針文書では動きません。動かすのは、練習された行動です。
この四半期に一つだけ変えるなら、従業員から報告を受けた直後の、管理職の初動です。第一声が「あなたの対応にも問題があったのでは」であってはなりません。その一言が、会社を甲府判決の側へ押しやります。聴き取り、記録し、その日のうちに本人の負担を外す。現場の従業員に必要なのも、マニュアルの読了ではなく、声に出して練習した一連の対応です。クレームの正当な部分を認め、対応の限界を伝え、責任者に引き継ぐ。引き継ぎは職務放棄ではありません。
境界線は二度引かれます。一つ目は、裁判所が何年も前から引いてきました。二つ目は、報告を受けた直後の数分間に、自社の中で引かれます。従業員は、その線がどこにあるべきかを既に知っています。10月からは、それを会社の言葉で示すことを、法律が求めます。

